土日は無為に消えていった。睡眠のリズムが乱れていたり、そもそもそれの原因かもしれないここ最近の咳のせいかも。旅行中は全然大丈夫だったのに。


この土日で、旅行中に書いていた記録をまとめてBlogの下書きまで持っていった。あとは概観と写真ぐらいか。なぜか、帰りの高速バスから眺めた首都高とその周囲の景色のことを思い出した。帰りのバスが首都高に入るらへん、たしかに格好良さがある。それまでの景色から一転、というだけかもしれないけど。

 

そしてなぜか、以前読んであまり気に入らなかった五十嵐太郎の著作を思い出した。街並みに関する議論を整理したり、向き合うことは必要かなと思っているけど、それでもまたあの本を読むのは無理かもしれない。ある種の戦争犯罪人の語りを読んでいるかのようだったから。


色々な書評を読んでも、その本は結局あの景観論争+建築評論クラスタ以上の範囲には出ない文章であることがわかった。わかった雰囲気の賛辞か、そもそも意味のないエッセイか、というどちらかしかない。そしてその基準は、どうも当人の属するコミュニティによるんじゃないかと思った。


建築には歴史的にも機能的にもアート的側面があるのはわかる。が、都市計画の対象が単一の建築物だけでなく、必然的に周辺の区画やそれらによるシステム自体となり、また、主観による美醜の判断だけでなく、経済性や交通工学・公衆衛生のような分野まで考えたうえでの都市である限り、もういい加減そういうスノッブな感じはやめたら、という思いが強くなった。


結局、今の都市景観を所与のものとして分析することはせずに、当時の大学生にアンケートとって今の日本の建築感を作文で示しただけじゃん。逆にこの人ぐらいしかそういうことを言う人はいなかったのか?なんだそれ。AKIRAとかエヴァを引き合いに出すと多視点的で面白いってことか。一部の社会学者への気持ちと同じく、あなたたちがこうなるのを止められなかったのでは、と思ってしまう。


五十嵐の例でいえば、ある種のニュータウン的な街並みを「新しい」「綺麗(清潔)」だから良いと評する学生がいるように、美醜は一面的ではない。それはそうかもしれない。だが、問いが合っているか、そもそも疑問ではあるが。美学とは、そういうものだっけという疑問もあるが。


現在では未実現ではあるが、莫大な予算も真剣に組まれようとしていた首都高の地下埋設化やそのハイライトである日本橋の復活。もし30世紀の人類が見たら、首都高の方が遺産となりうるのでは、という主張はそうかもしれない。ある種の制約下での特異性を思えば。


でも、そうじゃない。もうこんな風に注目され、適当なことを後付けで議論できるようになっているような箇所は、十分に経済が発展しているし、そこに関連する者の利害によってはいかようにも変化しうる。

だけど、なんてこともない殺風景な、特に何らかの美観への配慮が設計に組み込まれたわけではなく、自身の利害にだってすら意識のない人々が、何となく作ってしまったものが集まってできた街並みはどうするべきか。


そんな環境が、どの点で良くてまた悪いのか、なぜ生まれるのかを分析したり、そもそものデフォルト設定で出来上がるものがなんらかの文化的な価値観やビジョンを反映した意匠を表するように、うまく設定をするのが美観の面で都市計画に関わる人間じゃないのか。

なんで結局、市民の参加が求められる、って締めるんだ。いよいよつらくなってきた。


色々な邪悪な感情の末、「建築評論 無意味」のようなクエリで検索をかけると、1999年当時の黒木玄氏の運営するBBSの書き込みが出てきた。書いているのは山形浩生氏だった。他にも有名な人々が。これはインターネット考古学だ。もうCGIスクリプトは止まっているみたいだった。

 

http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/a0036.

 

もうこの分野は...と思ってしまったが、それは良くないだろうな。みんながみんなそんな尊大な衒学家ではないのだ。

 

https://cruel.org/cut/cut200205.html

https://cruel.org/cut/cut200606.html

https://cruel.org/cut/cut200006.html

 

ちゃんとした建築評論、読んでみるべきか。紙の本だし高いけど。